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松山地方裁判所 昭和29年(ワ)574号 判決

原告 池田シマ

被告 松山市

訴訟代理人 米田正弌

主文

被告は原告に対し金拾万円を支払い且つ松山市で発行される愛媛新聞紙上に壱回、本文日附及び原告の元住所は壱倍活字(五号活字)其の他は壱、五倍活字(四号活字)で、別紙記載のような文面の謝罪広告を掲載せよ。

原告其の余の請求を棄却する。

訴訟費用は金弐千七百円(貼用印紙のうち)を原告の負担とし、其の他は被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金五拾万円を支払い且つ愛媛新聞紙上に、松山市東警察署が公正ならざるため放火犯人として貴殿に迷惑をかけたことを陳謝する、旨の謝罪広告を掲載せよ」との判決を求め、其の請求の原因として、昭和二十九年二月六日午後十時頃及び同月十三日午前五時三十分頃松山市南江戸町一三二〇番地の第一訴外池田勇方住家に火災があつた。第一次の火災は本家東側部分物置入口から発火し僅少の炎上で消し止め、第二次のときは本家の東南に近接する牛舎便所等の一棟南端から発火しこれと其の東隣にあつた訴外池田泰三郎所有の物置とが焼失した。原告は当時右池田勇方西隣に住居していたものであるが、同年三月二日被告松山市の自治体警察であつた松山市東警察署から呼出を受けたので右火災事件の参考人として取調を受けるものと思い出頭すると、意外にも被告松山市の公務員である松山市警察本部捜査主任巡査部長佐伯宗明、同捜査係司法巡査天野正康、同同鈴木俊男は逮捕状を示して原告を逮捕した。其の逮捕状によると、右両度の火災は原告が前記池田勇の長女弘子と原告の遠縁にあたる訴外中田和夫との間に縁談の仲介をしたが、其れが不成立となつたことにつき池田家に対して反感を抱き其の為めに放火したと謂うのである。而して右放火罪の嫌疑により次いで勾留状が発せられ警察署及び検察庁に於て右被疑事実につき取調が行われ、同月十七日漸くにして釈放された。原告は第一次の火災の際は既に寝ていたし、第二次の際は当時未た寝ていた次第で、放火の嫌疑を受けるなど思いもよらず、全くもつて寝耳に水のことである。なる程昭和二十八年五月頃原告の夫政太郎と訴外中田政一の仲介で前記弘子と和夫間に縁談が進んでいたのに弘子の母親の反対でこれが不成立となつたことはあるが、間もなく同女の方で思い直して縁談再燃の申込があり、今度は和夫の方でこれを拒絶した一幕があつて、縁談不成立につき怨恨を抱くものがあるとすればそれは原告でなく寧ろ反対に訴外池田勇の方である。原告は近所誰知らぬ者もない仏性で、もとより右訴外人に対して何等の怨恨なく近しい親戚ではあり一の隣として永年心から親切を尽して来た。当時の原告家は右訴外人家と軒を合していて、若し同家が炎上すれば、我が家も亦類焼必至の運命にあつたのであるから、原告が同家に放火するなどということはあり得べきことでない。勿論検察庁の取調の結果、原告には嫌疑なしと裁定された。もともと、訴外池田勇は松山市朝美地区農業委員の公職に在つて、私利私欲をこととし、善良な人々を泣かせ、警察は自分の自由になると公言して憚らなかつた。其れ故右火災が放火であるとすれば、同訴外人の涜職面を徹底的に洗いさえすれば自然真犯人が現われて来る筈のものである。然るに警察署においては殊更に右の臭気には眼鼻を蔽つて調査をせず、調査不必要な原告を容疑者となし、前記の如き縁談再燃の事情について調査をしない儘、原告を呼出し、原告がこれに応じて出頭するや、佐伯部長は「二回目の火災直前現場に居たろう本職は背後に立つて見ていた。悪かつたと言え、然らば被害者とは親戚の間柄のこと故仲直りさせて帰宅させてやる」と詐術を弄し、無学な原告に対して自白を強要し、もとより原告が自白する筈もないのに同日夜放送局をして原告が放火を自白したと虚偽の放送をさせ、其の後の取調においても原告の弁解を少しも聞こうとはしなかつた。一方訴外池田勇は警察署と密接に連絡し「犯人は三日したら逮捕される、逮捕されたら警察はうまい具合に調べる、警察は俺の自由になる」などと揚言し、原告が逮捕されることさえ予め知つていたくらいである。斯る事実からみても佐伯部長等は右訴外人と共謀し、同訴外人の悪事露見を隠蔽するため、何等罪科もない原告を放火犯人にでつち上げんと企図したものに違いない。而して右捜査は前記佐伯部長、天野、鈴木両巡査が事実上担当し、原告には罪を犯したと疑うべき理由がないに拘らず、松山市東警察署司法警察員をして逮捕状を請求せしめて、同年三月一日付の逮捕状を得、前記の如く原告を自ら逮捕し、更に検察官をして勾留状を請求せしめて裁判官に勾留状を発布させ、引続き原告を右警察署に留置した上捜査を続け、検察官に釈放される迄原告を留置するに至らしめたものである。仮りに佐伯部長の右行為が勾留状による勾留に迄因果関係がないとしても、同部長等は勾留状が執行されて後も捜査を続け原告を取調べていたのであるから、原告が無実であることが判明していた筈で、直ちに原告を釈放するよう検察官に意見を述べ釈放せしむべきであるのに、敢えてこれをしなかつたもので、同部長等の責任は勾留にも及ぶと謂わねばならない。よつて、佐伯部長、天野、鈴木両巡査等の以上の行為は同部長等が職務を行うについて故意又は重過失をもつて原告の自由及び名誉を侵害したものであるから、被告松山市は国家賠償法の規定によつて、原告の蒙つた損害を賠償する義務を負うべきである。而して原告は当時六十二才の老婆であり、原告家は家屋敷並びに田四反、畑、果樹園合計六反を所有する中流の農家であつて夫と共に農業に従事し現に子女五人と共に生活しているものであるが、六十路を超えて初めて十六日間に亘るるいせつのはずかしめを味わせられたのみならず、原告が重大犯罪である放火罪により逮捕された旨新聞ラジオに喧伝され、原告の名誉は全く地に墜ち、ために新婚早々の五女美枝は離縁されるなど、この上もない苦悩のどん底に陥れられ、肉体上、精神上甚大な苦痛を蒙つたが、右苦痛は慰藉料として金五拾万円及び請求の趣旨記載の如き謝罪広告を得て漸く慰藉されるのである。よつて、原告は被告に対し右慰藉料及び謝罪広告を求めるため、本訴に及んだと陳述し、

立証として、甲第一ないし第一一号証、第一二、一三号証の各一、二、第一四号証を提出し、証人中田政一、山本重吉、池田政太郎、佐伯宗明(第一、二回)中田和夫、池田勇(第二回)中村実、山内茂、橋本シナヨ並びに原告本人の各尋問を求め、乙号各証の成立を認めた。

被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する」との判決を求め、答弁として、原告の請求原因事実中、原告主張の日に両度に亘り其の主張の訴外池田勇方において火災が発生し、原告主張の如き程度に焼燬したこと、原告の当時の住家が右訴外人家の西隣に在つたこと、被告松山市の自治体警察であつた松山市東警察署司法警察員の請求によつて原告に対し原告主張の日に其の主張の如き放火罪の嫌疑による逮捕状が発せられ、昭和二十九年三月二日右警察署において被告松山市の公務員であつた松山市警察本部捜査主任巡査部長佐伯宗明、同捜査係巡査天野正康、同同鈴木俊男が右逮捕状により原告を逮捕し、次いで検察官の請求によつて裁判官の勾留状が発せられ、警察署及び検察庁において右被疑事実につき取調が行われたこと、原告が同月十七日釈放される迄留置されたこと、其の後右事件は検察庁において取調の結果不起訴処分に決したこと及び原告が其の主張の如き年令で、其の家族並びに原告家の資産状態が原告主張の通りであることは孰れもこれを認めるが其の余の事実は総てこれを争う。右逮捕は、佐伯部長等が捜査した結果、原告が訴外池田勇の娘弘子と原告の遠縁にあたる訴外中田和夫との間の縁談の仲介をしたところ、弘子の母親の反対で不成立になつたが、最近弘子が他の媒酌で他家へ縁付くことになつたことから、原告が事毎に悪口を言つていた事実、第二次火災後警察官による実況見分の際、右弘子が警察官に対し、発火直後で近所の人も未だ来ていない頃、荷物を運ぼうとして自分の家と原告家との境の路地へ来たとき、其処で人影をみたと申出たところ、其の後で、原告が訴外岡田好美に対し、昨夜は眠れなかつたので午前四時頃起き表へ出たり家の廻りを歩いたと語つたが、右は自分の姿を弘子にみつかつて居るかも知れぬと思い先手を打つて弁解を試みたものと推定された事実、其の他原告には火災後種々不審な言動があつた事実が各判明し、前記火災は原告が放火したものであると疑うに足りる相当な理由があつたので、正当な手続により逮捕勾留したもので、原告主張の如き不当はない。ただ検察庁における取調の結果は、確証を得るに至らなかつたので、不起訴処分になつたに過ぎないと述べ、

立証として、乙第一号証の一、二、第二ないし第六号証、第七号証の一、二、三、第八号証、第九、一〇号証の各一、二を提出し、証人池田勇(第一回)佐伯宗明(第一回)の各尋問を求め、証人山内茂の証言を援用し、甲第一二、一三号証の各一、二、同第一四号証は不知、其の余の甲号各証の成立を認め、右不知の文書並びに甲第二号証を除く其の余の甲号各証を利益に援用すると答えた。

理由

昭和二十九年二月六日午後十時頃及び同月十三日午前五時三十分頃原告主張の如く訴外池田勇方において再度に亘る火災があり、原告主張の程度に焼燬したこと、原告の当時の住家が右訴外人方の西隣にあつたこと、同年三月一日原告に対し其の主張の如き放火罪の嫌疑による逮捕状が発せられたこと、同月二日被告松山市の自治体警察であつた松山市東警察署において被告松山市の公務員であつた松山市警察本部捜査主任巡査部長佐伯宗明、同捜査係司法巡査天野正康、同同鈴木俊男が右逮捕状により原告を逮捕したこと、次いで右嫌疑により勾留状が発せられ、引続き原告が勾留され、右警察署及び検察庁において右被疑事実につき取調が行われ、同月十七日原告が釈放されたこと及び其の後検察庁における取調の結果右事件につき不起訴処分の裁定のあつたことは孰れも当事者間に争がない。

よつて先ず右逮捕につき原告に罪を犯したと疑うに足りる相当の理由があつたかどうかを按ずるのに、孰れも成立に争のない甲第一、三号証同第五ないし第一一号証、乙第一号証の一、同第二ないし第四号証に、証人山本重吉、池田政太郎、佐伯宗明(第一回)(但し後記措信しない部分を除く)池田勇(第二回)佐伯宗明(第二回)の各証言を綜合すれば、前記の如く訴外池田勇方に両度に亘る火災が発生したので、佐伯部長等は関係者から事情を聴取し、現地を踏査した結果、右両火災は何者かの放火によるものであると認め、直ちに捜査に着手し、各方面へ捜査の手を拡げたが、容易に犯人の目星がつかなかつた。一方右池田勇方では二回も不審火が出たこととて、家族一同が戦々兢々とし夜もろくに眠れぬ程であり、当時夜毎同訴外人方に詰めて夜警に当つて呉れていた部落の警防団員に対する手前もあつて、一日も早く犯人の検挙されることを希んでいた。ところで右訴外人等は最初のうちは原告に対し嫌疑を抱くようなことはなかつたが、折に触れ話合い、各人の話を継ぎ合せてみると、火災後の原告の行動に不審の点があるように思われ、前記の如き精神的動揺も手伝つて、何時しか原告が放火犯人ではないかと想像するようになり、警察官の参考に供するため、同年二月二十三、四日頃右池田勇、同人の娘弘子及び勇の妻の妹岡田好美が交々佐伯部長等に対し

(1)  原告の夫政太郎の仲介で昭和二十八年五月頃前記池田勇の娘弘子と原告の遠縁にあたる訴外中田和夫との間に縁談があり、話は相当進んでいたのに、弘子の母親が、男の家が農家で多忙であるから娘が可哀想だと云つて反対し、縁談を不成立にしたことがあつたが、昭和二十九年一月上旬弘子が他の媒酌で他家へ嫁することとなつたので、原告が反感を抱き皮肉なことを言つていた。特に同年正月前記中田和夫方で法事のあつた際、其の席で原告が、弘子は色々仕度をしているが他家へ嫁するようなことがあれば何かにつけ邪魔してやる積りだと語つたことがあり、其のことは訴外中村実から聞知したこと。

(2)  第二次火災発火直後で近所の人も未だ来ていない頃、弘子が荷物を原告宅の方へ運ぼうとして自分方と原告家との境の路地へ来たとき、男女の別は不明だが一人の人が立つているのを認めたが、その事を実況見分に来た警察官に申告したところ、其の後で、原告が岡田好美に対し、何も尋ねもせぬ先に、自分は昨夜どうしても眠れず今朝も四時頃起き表へ出て一廻りしてから床に入り、うとうとした頃火災になつたと語つたが、右は原告自身にやましいところがあるため、先手を打つて弁解を試みたものと思われること。

(3)  原告が第二次火災の翌日池田方へ手伝に来ていた際、もう一度火をつけられるかも知れない。ほとぼりのさめた頃が危い。自分は荷物を避難させなかつたが、自分方迄類焼することはないと語り何となく計画的な底意のあることが窺えたこと。

(4)  警察官が池田方へ調べに来ると、原告は捜査状況を探ろうとしているような気配があること。

斯様な事実から原告が放火犯人ではないかと思う旨供述した。其処で佐伯部長等は前記中田和夫につき縁談が不成立になつた事実及び右池田勇の縁故者一、二名につき同人等も右供述と同様のことを池田勇等から伝聞している事を確めた上、既に相当期間各方面の捜査を尽し容疑者を洗い落した上であるから最早容疑者は原告一人にしぼられたと軽断し、右池田勇等の供述調書に佐伯部長の捜査報告書等を疏明資料として松山市東警察署司法警察員をして逮捕状を請求せしめ、これを得て、前記の如く原告を逮捕するに至つた事実が認められ、右認定に反するが如き証人池田勇(第一回)佐伯宗明(第一回)の各証言はたやすく信用することができず、他に右認定を覆すに足る証拠がない。

然しながら、凡そ犯罪捜査の職に従事する者が、被疑者を逮捕するに当つては、憲法の保障する基本的人権尊重の理念及びこれに基く刑事訴訟法の諸規定に従うべく特に逮捕の要件である罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由の有無の判断については被害者等はその意識するとしないに拘らず利己的立場より往々にして予断に基き判断供述しその公正を失し勝ちであることに鑑みこれを盲信するが如きことなく、経験則に従い客観的に信用し得る資料に基き慎重且つ公正にこれを為すべく、苟くもえん罪により身柄を拘束されるが如き者の絶無を期するよう極力配慮すべきであると謂うべきところ前記池田勇等の供述内容中(2) (3) (4) の点は孰れも其れ自体に徴し主観的な推察が大部分を占めて客観性に乏しいことが窺えるし、特に前記(2) の弘子が認めたという人影について考えてみても、放火犯人が放火後其の附近に於てこれを望見するが如きことは犯人が精神異状者でない限り常識上想像し得ないところであるから、同女が火災中の狼狽と暗夜火災による光線の明滅に幻惑され、何かの物影を人影であると錯覚したものと考えるのが一般であつて到底信用し得べき資料ではない。たゞ最も信用し得べき前記(1) の怨恨の点であるが、成立に争のない甲第五号証に、証人池田政太郎、佐伯宗明(第一、二回)(但し第一回中前記措信しなかつた部分を除く)の各証言を綜合すれば、当時の原告方住家は池田家の西隣に軒を合して接続しており、両度の火災時共微々たりとは云え東南風又は東風があつたのであるから、池田家が大火となれば原告家も亦類焼の危険があつた事実及び其の事実を佐伯部長等が知つていたことが認め得られ、右認定を覆すに足る証拠がない。そうすると、原告が自家に対する類焼の危険を顧みず池田家に放火するが如きことは、前後を失う程の怨恨による以外には通常考え得ないところである。従つて斯くの如き怨恨の存在が明かにされない限り(尤も原告が精神異状者であるとの資料があれば格別であるが其の様なものはない)其れだけでも原告を放火犯人と疑うことはできない道理である。然るに弁論の全趣旨によれば佐伯部長等が原告を逮捕した当時原告が池田家を恨んでいたとの具体的な事実を認める資料は、たゞ前記(1) の供述以外には何も無かつたことが窺い知れる。そして其の供述にしても、(イ)原告が池田家の者に対し皮肉なことを云つていたということ、(ロ)訴外中村実から聞いたところによると、前記中田和夫方における法事の際原告が池田家に対して恨言を云つたとのことであるとの二点であるが、前者は曖昧であり、後者は右中村実につき事実確認の調査が為されておらず、其のことは証人佐伯宗明(第二回)の証言によつて明かであつて、其の真偽の程が疑わしい。そうすると、前記の如き池田勇、池田弘子、岡田好美等の供述のみをもつてしては到底原告が放火したと疑うに足りる相当の理由があると謂うことはできない。

原告は佐伯部長等が右の如き逮捕をするについて訴外池田勇と共謀の上故意になしたものだと主張するが、佐伯部長等において原告を逮捕するに至つた経緯は前段認定の通りであるから、原告の右主張は採用できない。よつて進んで佐伯部長等に過失があつたかどうかを按ずるに、先ず前記(2) (3) (4) の如き池田勇等の供述が必ずしも信用すべき資料でないことは刑事事件の捜査に従事する警察官としては当然認識すべきものであつたことは云う迄もない。次に、前記(1) のような事情で昭和二十八年五月前記池田勇の娘弘子と訴外中田和夫間の縁談が不成立になつたことは原告も争わない。而して証人中田政一、中田和夫、中村実の各証言を綜合すれば右縁談は訴外中田政一及び原告の夫池田政太郎が仲介して話を進めたものであること弘子の母親が縁談に反対し原告に対し其の旨を先方に伝えて貰いたいと申出た際、其の理由が一般人を納得せしめるような理由でなかつたのに拘らず、原告は万一婚姻後に不縁となつた場合の気まずさを慮り、弘子の母親の意思を尊重して簡単に同意したくらいであつて、当時池田家の者に対し格別反感を抱いてはいなかつた事実、右縁談の不成立は弘子自身の本意に副うものでなかつたので、同女の祖母等の発意により同年七月頃縁談の再燃を試みたところ、結局今度は和夫の方でこれを拒絶した一幕があつたが、原告は昭和二十九年一月頃右の事実を聞知し弘子の方に対して気の毒にさえ思つていた事実、縁談が不成立になつたのは前記の如く昭和二十八年五月であり、本件火災の発生は昭和二十九年二月であつて相当月日が経つているのに其の間原告が池田家の者を恨んでいたような具体的事実のないこと、特に同年一月前記中田和夫方における法事の席上で原告が前記(1) の後段に記載のような恨言を云つた事実は何もないことが各認め得られ、右認定を覆すに足る証拠がない。そうすると、原告は池田家に放火するような怨恨は持つていなかつたことが明かである。そして其の事は前記証人等について事情を聴取すれば容易に判明するところであつた。而して右の事実が佐伯部長等に判つておれば、他の資料が前記の如く必ずしも信用し得べきものでないから、部長等は原告を逮捕するようなことをしなかつたことも想像に難くない。本件のような場合、原告に放火犯人としての嫌疑をかけるには原告が池田家の者に対し相当強度の怨恨を持つているべきであることが必須要件であることは前段認定の通りであるから、捜査担当の警察官としては前記証人等につき右怨恨の有無程度を慎重に調査すべきであり其の必要のあることは当然認識すべきことであつた。然るに、佐伯部長等は前段認定のように、前記池田勇等の供述を軽信し、右中田和夫につき縁談不成立の点のみの裏付調査をしただけで其の他の調査をしない儘、原告に放火したと疑うに足りる相当な理由があると即断して原告を逮捕するに至つたもので、右逮捕は佐伯部長、天野、鈴木両巡査等の共同の過失による違法な行為と謂わなければならない。

而して、右逮捕に次いで、前記被疑事実につき検察官から勾留状の請求が為され、裁判官の勾留状が発せられて原告が昭和二十九年三月十七日検察官から釈放される迄十六日間右警察署等において留置されたことは既述の通りであるが、右被疑事件の性質、前記疏明資料の存在すること及び勾留状の請求並びに発布が比較的短時間内に処理せねばならないこと等に鑑みると逮捕から始まつて、検察官の事実取調に必要な相当期間の勾留に至る一連の経過は逮捕に因る通常の結果であつて、特段の事情もないから、右逮捕と勾留との間には相当の因果関係があるものと解するのが相当である。そして其の間原告が甚大な肉体的精神的苦痛を受けたことは勿論のことである。又証人山本重吉、池田政太郎、橋本シナヨの各証言によると、原告が右放火事件の被疑者として逮捕されたことが当時新聞ラジオに報道され一般多数人の知るところとなつた事実が認められるが、被疑者即ち真犯人でないことは勿論であるけれども、被疑者として逮捕されたことが報道されることにより被疑者が不名誉を蒙り信用を失墜することは、我が国の実情から考えて常識上当然であるから、被疑者たる原告が右報道により不名誉を蒙り信用を失つたことは明かである。これにより原告が精神的苦痛を受けたことも想像に難くない。そして本件のような犯罪により被疑者が逮捕されたときには、新聞ラジオで報道されることは通常のことである。従つて右肉体的精神的苦痛たる原告の損害は佐伯部長等の前記逮捕によつて生じたものというべきである。但し、原告は被告が放送局をして原告が放火を自白した旨虚偽の放送をさせたと主張するが、証人佐伯宗明(第一回)(前記措信しなかつた部分を除く)の証言によると、右は放送局の誤報と認められるから、虚偽の放送の結果迄右逮捕に基因するものということはできない。又原告は原告が逮捕された為め、新婚早々の五女美枝が不縁となり母親として精神的苦痛を受けたと主張するが、結婚は本来純粋な両性の結合であつて其の維持又は解消は周囲の事情に影響されない筈のものであり、今日其の様に考えることが青年男女の常識となりつゝあるから、仮りに原告主張のような右事実があつたとしても、其れも右逮捕に基因する一般的な結果ということはできない。従つて右両主張による原告の精神的苦痛は原告の損害の範囲に入れないこととする。

以上の理由で、被告松山市は、国家賠償法の規定により、原告に対し、佐伯部長、天野、鈴木両巡査の違法な逮捕により原告が蒙つた前段本文記載の肉体的精神的苦痛の損害を賠償すべき義務がある。そこで、原告の右損害の額並びに名誉回復の方法につき考えるのに原告が当時六十二才の老婆であり、原告家は家屋敷並びに田四反畑果樹園合計六反を所有する中流の農家であつて夫と共に農業に従事し子女五人と共に生活しているものであるとの当事者間に争のない事実に、原告に対する不法行為の程度及び態様、原告の蒙つた肉体的、精神的苦痛、原告が不名誉を蒙つた程度等に鑑み、被告は原告に対し慰藉料として金拾万円を支払うと共に、原告の名誉回復の方法として、原告には放火犯人として疑うべき相当の理由がないのに過つて逮捕したものであることを世間に知らせる為別紙記載のような文面の謝罪的広告文を新聞紙に掲載すべきである。

よつて、原告の本訴請求は右の範囲においては相当であるので認容し、其の余は失当であるので棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十二条を適用して、主文の通り判決をする。

(裁判官 矢野伊吉 加藤竜雄 篠原幾馬)

謝罪広告

昭和二十九年三月二日松山東警察署において過つて貴殿を放火犯人として逮捕し貴殿に迷惑をかけたことを陳謝する。

昭和 年 月 日

松山市

元松山市南江戸町

池田シマ殿

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